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第64回 卒業礼拝

2月25日(木)、本校礼拝堂にて第64回卒業礼拝を行いました。

卒業を控えた6年生と全教員が共にこの記念の礼拝を捧げることができました。この礼拝はもちろん、6年生の生徒が本校でこれまで礼拝を守り続けてこれたことに心から感謝いたします。

この日の礼拝メッセージは、日本基督教団横浜指路教会 藤掛 順一 牧師にお願いをしました。「実を結ぶ人生」と題してお話をいただきました。

前奏

招詞 ヨシュア記1章5節

 一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。
 わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。
 あなたを見放すことも、見捨てることもない。 

頌栄 539番

主の祈り

交読文 詩編126編1~6節

讃美歌 讃美歌Ⅱ編 1

聖書 マルコによる福音書4章1~20

イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。 それは、『彼らが見るには見るが、認めず 聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」
また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

祈祷

説教 「実を結ぶ人生」
  日本基督教団横浜指路教会 藤掛 順一 牧師

祈祷

頌栄 541番

祝祷

後奏

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講師紹介



藤掛 順一 牧師 日本基督教団横浜指路教会
1984年4月より日本基督教団富山鹿島町教会牧師
2003年9月より日本基督教団横浜指路教会牧師

「実を結ぶ人生」
 関東学院六浦高等学校を卒業される皆さん、卒業おめでとうございます。今皆さんは、六年間のこの学校での生活を終えて旅立とうとしています。この先の進路はもう決まったでしょうか。望みがかなった人も、そうでない人もいるでしょう。しかしどの人にも共通していることは、この学校での六年間の学生生活がこれで終わるということです。皆さん、この六年間はどうでしたか。
 この六年間を振り返って、いろいろあったけれども基本的には楽しかった、よかった、と思っている人は多いのではないかと私は想像しています。しかし中には、基本的につらかった、苦しかった、いやだった、と思っている人もいるかもしれません。しかしそのいずれであっても、皆さんのこの学校での生活はもうこれで終わりです。どんな学校でも、どんな学生生活でも、卒業する時にはそれなりの感慨があるものですが、今皆さんの心の中には、この学院でのいろいろな思い出がわき上がっていることでしょう。
 その様々な思い出の中で、皆さんがこの学校で毎日、そして例えば今日のような大事な区切りの時に繰り返し行なってきた「礼拝」のことはどのくらいの位置をしめているでしょうか。これも私の全く勝手な想像ですが、礼拝こそがこの学校の最もよい思い出だ、と思っている人は多分あまりいないでしょうし、礼拝といったら、眠かった、退屈だった、ぐらいのことしか思い浮かばないという人が多いのではないでしょうか。
 皆さんがこの六年間毎日してきた礼拝は、この学校を卒業し、去ることによってもう皆さんの生活から無くなります。卒業して、例えば大学に進学するとして、一番変わることは、実はこのことではないかと思うのです。他のことは、いろいろ形は変っても続いていきます。大学に行っても勉強は勿論続いていきますし、クラブ活動やサークルなどでやっていたことも、その意志さえあれば続けることができます。友達は卒業しても友達でいることができるし、さらに新しい友達との出会いも与えられていくでしょう。しかし、毎日、讃美歌を歌い、聖書を読み、祈り、お話を聞いたこの礼拝は、もうなくなるのです。やっとこの時間から解放される、と喜んでいる人も多いだろうと思います。卒業する時にはたいていそう思うのです。けれども、卒業してしばらく経ってみると、礼拝の時間がとても懐かしく思えてくるようです。それはおそらく、日曜日に教会の礼拝に通っているという人でない限り、この礼拝の時間に当たるものが、卒業した後の皆さんの生活には全くなくなるからでしょう。キリスト教系の大学に進学すれば、大学でも礼拝に参加することが出来ます。でも大学での礼拝は、多くの場合自由参加ですし、高校の時のように学年全員で守るというものではもうありません。ですから、関東学院の生徒だった時代にはあって、今はないもの、あの頃はしていたけれど今はしなくなったこと、それは礼拝であり、礼拝こそが、関東学院の生徒だった時代の最も特徴的な思い出だ、ということになるのです。
 今そう思いなさい、と言っているわけではないですよ。そんなことは誰かに言われて思うことではありませんからね。でも、今、いよいよ最後となる卒業礼拝をしているわけですから、この六年間毎日行ってきた礼拝のことに少し思いを向けてみて欲しいのです。礼拝では、必ず聖書の言葉が読まれましたね。そしてその言葉について、先生方だったり、時には私のような教会の牧師だったりがするお話を皆さんは聞いてきましたね。そして繰り返し教えられてきたことは、礼拝では、聖書を通して神様のみ言葉を聞いているのだ、ということだったと思います。礼拝というのは、神様のみ言葉を聞く時、神様が私たちに語りかけて下さる時です。そして私たちの方からは、神様に祈り、賛美をする。そういう神様とのやりとり、キャッチボール、交わりの時が礼拝なのです。
 そういうわけで皆さんは毎日の礼拝で神様の言葉を聞いてきたのですが、その言葉は皆さんの中でどうなったのでしょうか。どんな実りを生んだのでしょうか。ここから、先程朗読された聖書の箇所、マルコによる福音書の第4章に入っていくのですが、ここには、イエス様がお語りになった「種を蒔く人」についてのたとえ話があります。蒔かれた種がいろいろな土地に落ちるのです。道端に落ちた種は、鳥が来てすぐに食べてしまいました。石だらけで土の少ない土地に落ちた種は、すぐに芽を出しましたが、根を伸ばすことができないので、強い陽射しによって干涸びてしまいました。茨の中に落ちた種は、周りに伸びてきた茨に塞がれて実を結ぶことができませんでした。しかし良い土地に落ちた種は芽生え育っていって、三十倍、六十倍、百倍の実りを生んだのです。
 六年間関東学院で礼拝をしてきた皆さんはこのたとえ話を読んだことがあると思います。14節以下に、イエス様ご自身によるこのたとえ話の説明がありますね。14節に「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」とあります。このたとえ話の種とは、神様のみ言葉のことです。それがまかれる土地とは、そのみ言葉を聞く私たち人間です。ですからこのたとえ話は、神様のみ言葉を聞いた私たちが、それをどう受け止めたか、そしてそのみ言葉はどう実を結んだか、を語っているのです。道端に落ちた種、それは15節にあるように、み言葉を聞いてもすぐにサタンが来てそれを奪い取ってしまうというケースです。右の耳から入って左の耳から出て行ってしまって何も残らない、何も実を結ばない聞き方、要するに全然聞いていないということです。石だらけの所に蒔かれた種は、聞いたみ言葉をすぐ受け入れるけれども、しっかり根づかず、苦しいことが起るとすぐ挫折してしまって実を結ばない、というケース。いわゆる三日坊主で続かない聞き方です。茨の中に落ちた種とは、み言葉が他のことに塞がれてしまう、というケースです。他のこととは、「世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望」とあります。他にいろいろやりたいことがあったり、心配なこと、気掛かりなことがあって、神様のみ言葉にしっかり耳を傾けることができなくなってしまう、ということです。これらのケースではいずれも、神様のみ言葉を聞いても、それが結局実を結ばずに枯れてしまうのです。最後の良い土地というのは、み言葉を聞いてそれをしっかりと受け入れ、それが根付く人たちのことであり、その場合のみが三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。
 この六年間、礼拝で、皆さんの心に、神様のみ言葉の種が蒔かれてきました。皆さんはその種を、どんな土地として聞いてきたでしょうか。そしてみ言葉の種はどんな実りを生んだでしょうか。私は良い土地としてみ言葉を聞き、三十倍、六十倍、百倍の収穫を生みました、と思う人? そんなおめでたい人はいないよね。私たちは誰もが皆、最初の三つの土地のどれかです。たいていの人は道端だよね。右から左に抜けていって、芽を出しもしない。ごくたまに、石だらけの土地のような人がいて、ちょっと芽が出るけれども続かないで枯れてしまう。あるいは茨の中という人もこれまたごくたまにいますが、み言葉の種が芽を出したのですが、いろいろなことに忙しくしている中でそのうち枯れていってしまうのです。そういうふうに私たちは、時には道端、時には石だらけの地、時には茨の中だったりするけれども、良い土地であることだけはまずない、というのが現実だろうと思うのです。
 さてここまで話を聞いてきて、今日の私の話は、あなた方はこれまで神様のみ言葉にとって良い土地ではなかったかもしれないが、そのことを反省して、これからはみ言葉をしっかり聞く良い土地になって下さいということだろうと思った人がいたら、それはハズレです。私はそんなことを言うために今日ここに来たのではありません。そうではなくて、私は今日皆さんに、関東学院を卒業するに当たって、つまり毎日この学院で礼拝をしてきた歩みを終えるに当たって、既によく知っているだろうこのたとえ話を別の角度から見つめ直してもらいたいと思っているのです。
 今お話ししたのは、自分はこの話の中のどの土地だろうか、というふうに自分のことを見つめていくという読み方です。そこからは、自分は良い土地ではなくて最初の三つ土地のどれかだ、ということしか見えてきません。でもこの話はそれとは別の角度から見るべきなのです。それは、種が蒔かれる土地を、つまり自分を見つめるのではなくて、種を蒔く人を中心にしてこの話を見つめることです。このたとえ話は、3節の「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」という言葉から始まります。この話の主人公はこの「種を蒔く人」なのです。その人のことを見つめさせようとしているのです。その人とは勿論神様です。神様が、ご自分のみ言葉という種を、私たち人間に蒔いて下さっているのです。種を蒔くのは、勿論収穫を得るためです。実りを期待してです。神様は私たちの内に豊かな実が実ることに期待して、み言葉の種を蒔いておられるのです。
 収穫を得ようと思って何かの種を蒔く時に私たちはどうするでしょうか。道端や、石だらけの地や、茨の中には蒔きませんよね。ちゃんとした畑に、しかもそこをよく耕してから種を蒔くでしょう。つまり、良い土地に種を蒔くのです。そうしなければ、蒔いた種が無駄になってしまうからです。ところが神様は、そういう種蒔きの仕方をなさいません。道端や、石だらけの土地や、茨の中にも種を蒔くのです。鳥が来て食べてしまったり、少しは芽を出しても結局は枯れてしまって実を結ばないことが分かっているような所にも、せっせと種を蒔くのです。このたとえ話は、神様はそういう無駄なことをなさる方だ、ということを語っているのです。なぜそんな無駄なことをするのでしょうか。それは、道端だったり、石だらけの地であったり、茨の中だったりする私たちが、良い土地となって、豊かな実を結ぶことを願っておられるからです。こんな土地はどうせ駄目だと見捨てるのではなくて、私たちに期待しておられるからです。だから、無駄になることが目に見えているのに、種を蒔き続けておられるのです。神様は、私たちのために、そういう無駄をなさる方です。神様が私たちのためにして下さった最大の無駄、それは、独り子イエス・キリストを遣わして下さったことです。神の子であるイエス様をこの世に送って下さったのです。この世は、つまり私たち人間は、その独り子を神として敬って受け入れるような良い土地ではありません。イエス様は結局、十字架につけられて殺されてしまったのです。神様の独り子が来られたのに、殺されてしまった、その命は無駄になってしまったのです。けれども、皆さんはこの六年間繰り返し聞いてきたでしょう、このイエス様の十字架の死によって、神様は私たちの救いを実現して下さいました。イエス様が私たちの全ての罪を背負って死んで下さったことによって、私たちの罪が赦されるという救いの恵みが実現したのです。無駄になってしまったと思えたイエス様の死から、復活が実現して、神様の救いの恵みが死の力に勝利したのです。そして、その救いの恵みを信じて、神様に感謝して生きる人々の群れである教会が生まれました。無駄になってしまったと思われた種が、何百倍ものすばらしい実りを生んだのです。イエス様による救いを信じてクリスチャンになった人々は、最初から良い土地だったなんていうことはありません。今牧師をしている私も含めて、最初から良い土地だった人などいないのです。みんな道端のような、石だらけの地のような、茨の中のような土地だったのです。しかしそこに、神様がみ言葉の種を蒔いて下さいました。その種はすぐに鳥に食べられてしまったり、芽を出してもすぐに枯れてしまったりしました。私たちの心の中には、無駄になってしまったみ言葉の種の残骸がなんと沢山埋まっていることでしょう。それでも神様は、私たちに、み言葉の種を蒔き続けて下さるのです。無駄になっても無駄になっても、主イエス・キリストの十字架の死による救いの恵みを与え続けて下さるのです。この神様の根気強い働きかかけによって、私たちの心は次第に柔らかく耕されていくのです。神様ご自身が、収穫を期待して種を蒔く人として、私たちの心を耕し、ごろごろしている石を取り除き、茨やその他の雑草を抜いて、手入れして下さるのです。そのようにして私たちは次第に、良い土地へと変えられていくのです。
 皆さんはこの六年間、この学院で毎日礼拝をしてきました。それは、神様が皆さんの心に、毎日毎日、み言葉の種を蒔き続けてきて下さったということです。種を蒔いて下さった神様は同時に、皆さんの心を耕し、石を取り除き、雑草を抜いて手入れをして下さっているのです。その神様の恵みは、皆さんがこの学院を卒業したらもう無くなるのではありません。皆さんをこの学院へと導いて、ここで六年間の生活を与えて下さったのは神様です。皆さんは神様に選ばれ、招かれて、この学院で学び、また礼拝を守ってきたのです。皆さんを選び、お招きになった神様は、決してあきらめてほうり出すことはなさいません。これからも、いろいろな仕方で皆さんの心に働きかけ続け、いつか必ず、皆さんの心の畑に、豊かな実りを実らせようとしておられるのです。
 最後にもう一つのことをお話ししたいと思います。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」と言われています。「良い土地とは」ではなくて、「良い土地に蒔かれたものとは」と言われていることに注意して下さい。「蒔かれたもの」は種です。つまりここでイエス様は、私たちのことを、み言葉の種が蒔かれる土地としてだけでなく、神様が蒔いて下さる種としても見つめておられるのです。皆さんは、神様がこの世界という土地に蒔こうとしておられる種です。この学院を卒業して、それぞれの所に蒔かれていくのです。皆さんが蒔かれていく世界は、種が芽を出して実を実らせるのが決してやさしい所ではありません。道端のようなどうにも歯が立たないような所もあれば、石だらけの地のような困難や試練に見舞われる所もあり、茨の中のように様々なことに取り囲まれて身動きがとれなくなってしまうような場合もあります。そのような中で、文字通り全然芽が出ない、思ったようにならない、という苦しみを覚え、挫折し、絶望してしまうようなこともあるでしょう。けれども、独り子イエス・キリストの十字架の死によって私たちを救って下さった神様は、皆さんが蒔かれていくそれぞれの所で、固い土地を耕し、石を取り除き、茨を抜いて、そこを良い土地へと変えていって下さいます。神様が皆さんを用いて、そういうみ業を実現して下さり、そして三十倍、六十倍、百倍の実を実らせて下さるのです。私たちの心を耕して、良い土地へと変えていって下さる神様は、私たちが種として蒔かれていく土地をも耕して下さって、良い土地へと変えていって下さいます。皆さんはそのために、関東学院六浦中学、高校へと招かれ、六年間の学生生活を与えられ、礼拝においてみ言葉の種を蒔かれ、そして今、それぞれの所に蒔かれていくのです。皆さんに与えられている神様の招きと恵みは、卒業してからも皆さんと共にあり続けます。そのことを信じて、勇気と希望をもって新しい道へと歩み出して下さい。卒業おめでとうございます。