校長のつぶやき(109)平和を考える…見えないものを見ること、畏れること


掲載日:2025.08.03

(一学期終業式 校長メッセージから(抄))

夏休みです。学校がある普通の日とは違います。どこに行こうか…、何をしようか…と、何かを思う時間があります。未知・未来への期待に胸を膨らませることができます。しかし、今から80年前はそうではなかった。未来への期待どころか、その未来さえも持つことが認められない時代でした。今年は戦後80年です。この夏休みはいろいろなメディアで様々な特集が組まれるでしょう。皆さんも平和について、是非考えてほしいと思います。

「知覧特攻平和会館」のお話を2019年と2021年にしていますが、今日あらためて語ります。私が高校2年生のとき、ちょうど戦後から30年。カトリックの高校で「宗教」という授業があり、夏休みが近い頃に「特攻隊」の話がありました。その印象がずーっと心の中に引っかかっていました。教員になって20年ほど経って、鹿児島県の南九州市の「知覧特攻平和会館」を一人で訪ねてみました。

太平洋戦争。日本は当時、「欧米列強の支配からのアジアの解放」を戦争の理念として唱えていました。国民はその大義名分に固定されました。戦況が押され気味になりアメリカ軍による日本本土への攻撃が見込まれ始めて、「特別攻撃隊」いわゆる「特攻隊」がつくられました。アメリカのグラマン戦闘機と並んで世界最強と言われたゼロ戦を中心に、小グループに組まれた「特攻隊」がアメリカの戦艦を攻撃しに行く。片道分だけの燃料を積み、帰りの分の重さを爆弾に置き換えて飛んでいく。そして自ら、飛行機ごと爆弾となるという作戦です。

私は「知覧特攻平和会館」をこれまで二度訪ねています。初めて訪ねたときは、高校時代から気になっていた特攻隊を、教師である以上一度は知覧に訪ねるべきという気持ちからでした。鹿児島県の南九州市知覧町、お茶の畑の高原の中にある「知覧特攻平和会館」。知覧から沖縄戦の海に飛び立っていった特攻隊の若者たちの遺影と遺書がずらりと展示されています。

遺影の一人一人。どの写真も何かを語っています。真一文字に閉じた口も、険しく逞しい目力の目も、どこか、何か別のことを訴えている。遺書は、行と行の間に隠されて込められた言葉が聞こえてくるようでした。特攻隊航空兵1,000人を超えるその遺影と遺言で、ただただ、未来を絶たれることの悲惨さを感じました。重い衝撃でした。重すぎて言葉を失い、感情も消えた。ここへは二度と来ないだろうと思いました。

しかし、10数年前に再び訪ねました。一度目の訪問で何かが消化できないまま残っていて、どうしても訪ねたかったのです。落ち着いて訪ねることができました。ただ、一度目とは違って、一気に涙がホロホロと流れ出ました。静かに湧き出て止まりませんでした。一緒に訪れた大学一年生の息子はそれまでとは別人となり、無言の一日となりました。

町、地域、国という集団のレベルで、ものの判断ができなくなる弱さ。判断がつかなくなる状態の怖さ。集団心理で思考が停止する状況の悲惨さ。遺影の若者たちが大義名分をかざして自ら命を落としに行く狂気は何故なのだ。国民全体が命を捧げることを奨励し賛美した時代に誰がしたのだ。遺書の中の言葉とは全く逆の、本当の気持ちが聞こえてくるようでした。

2019年にお話しをしたときに、特攻隊に関連する本を何冊か図書館に入れてもらいました。今年も図書館にコーナーがつくられています。是非、時間を充ててみてください。生きたくても生きることができなかった時代があったのです。人としての思考が停止させられた社会があったのです。人の命を命と思わない狂気があったのです。

今日私が皆さんにこの話をするのは、自分で自由にできる時間がいつもより多くある夏休みに、少しの時間でもいいですから、是非、いま自分が学ぶこととその学びの意味を、平和を創る力に結んでほしいという気持からです。そして、国民全員、考える力がマヒした時代の文脈の中で、日ごろ聖書を通して語られていることについて、いつもとは別の次元に自分を置いて考えてみてほしいという気持ちからです。

聖書に示されていることは見えない、あるいは感じない。すると人はそれを見よう、見分けようとはしない。天気だとか天候だとか、人は見える現象には敏感で、その先を予想して、あるいは恐れて準備をするのに、言葉に示されているだけで科学的に証明されないことや直接見えないものには、心の準備さえしない。むしろ毛嫌う。見えないものを見ることはたしかに難しい。しかし、見ようとしないから、人は「自分自身」が見えるものとなり、畏(おそ)れを忘れる。人は「自分の考えること」や「自分の価値観」を一番にして押し通す。そして、そうした考え方が束となり、集団レベルでの強い力となり、国レベルでの拘束力となると、人の、一人一人の命の重さも見えなくなる。

皆さんは若い。若さゆえに見えないものがあります。そして、意固地になって見ない、見ようとしないことだってあるものです。それは、若さの特長でもあり、若さの力でもあります。しかし、それは危ない事にもなる。見えないものを見分ける力を失うと、相手の命も、そして自分の命も、理不尽に、無残に失うことになる。見えないものを信じること、そして同時にそれを畏(おそ)れることが大事なのです。若いエネルギーを、見えないものを見てみようとする気持ちにも用いてほしいと願います。平和を創る力の源と言いたい。そういう思いからも、戦後80年の節目にあらためて知覧を語りました。