校長のつぶやき(34)平和をおぼえる夏(1学期終業式式辞)


掲載日:2019.07.22

新約聖書マタイによる福音書7章13~14節
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

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今日のイエスの言葉は、よく引用される言葉です。「狭い門から入りなさい」。日常生活の中で、厳しい競争などを勝ち抜くような経験をした時など、その希少さを称えるためによく引用されます。例えば、難関と言われる大学の入試を喩える時とか…ですね。そのせいか、「狭い門」とは難しい競争を喩える時に使われる言葉だと思う人が多いかと思います。

しかし、イエスの言葉の本当の意味は、人との競争を意味するものではありません。「狭い門」とは、他の人との競争を指すのではなく、自分の心の中にある課題や問題との向き合うことの難しさを語るものです。この「自分の心の中にある課題や問題」をもっとキリスト教的に言えば、自分の中にあるどうしても捨てきれない「自己中心的な心」のことです。人間が固有の命を持つ一つ肉体で生きる以上、何につけても他者との関係でその問題に必ずぶつかります。

誰かと利害関係がある時、あるいは利害関係でなくても自分の考えや気持ちを通したい時、人との関係において自分を第一優先に考えてしまう。あるいは、自分の思いだけを通してしまう。そうした人間の自己中心性を離れることの難しさが「狭い門」なのです。自己中心性を心から見つめて、そのことへの気づきをしっかりと踏まえて生きること、しかし究極的に、それから逃れられず、「狭い門」はイエス・キリストの愛によって導かれること、これが「狭い門」の話です。ただし、勘違いをしてはいけないことがあります。キリスト教を信じるから既に「狭い門」を通ったということではありません。信者であっても皆同じです。むしろ、キリストに近いと思っている人ほど「狭い門」から遠い場合もある。「狭い門」とは、人間が生きている限り突きつけられる人生のテーマなのです。人間にとって、自己中心性はいつまでも大きな課題なのです。

今日は一学期の終業日。4月1日から110日。皆さんの充実した日々の活動や生活を見ていると、長かったようでもあっという間の一学期だったのではないでしょうか。この一学期の間、自己中心性の問題についていろいろ考えてきました。友達や仲間との関係、家族の繋がり、社会の中で起こっている事件など、いろいろ考えてきました。礼拝の感想文を読んでみて、とてもよく考えてくれた一学期だったと感じています。

さて、その一学期が終業です。新しい一年が始まった日の決意や気持ちを覚えていますか。その時の気持ちに照らしてみると、どんな110日になったでしょうか。夏休みに入る前に一度立ち止まって、静かに自分自身と対話してみましょう。どの人にも「まずい!」と思うことがあるでしょう。そして振り返って新たな決意をするわけです。今度は絶対にうまくやってやろう!とか、失敗を取り返そう!とか。また、いい意味でのリベンジを考える人もいますね。例えば夏休み明けの「英単語コンテスト」。6年生を抑えて上位入賞を目指す!と、密かに思っている人もいるでしょう。そうです。人は過去を変えることはできませんが、自分の未来は変えることができます。つくることができるのです。それも近い未来であれば可能なことも多いものです。未来とは、自分がつくる新しい世界です。

さあ、夏休みです。皆さんには、未来を考え行動することができる時間が与えられている、自分の人生を考えることができる恵まれた時間が与えられています。もし、校長から夏休みの宿題を出すとすれば、唯一、このことです。つまり、恵まれた時間が与えられていることをどんな風にとらえ、考えるか…です。

一方、自分の未来を、自らの意思からではなく社会の当然のこととして捨てなければいけない、捨てさせられた時代があったことを思い出したい。5月の連休明け、皆さんに礼拝で鹿児島県の南九州市知覧町にある「知覧特攻平和会館」を訪ねた時のことをお話ししました。80年前の第二次世界大戦中のお話です。当時の日本は「欧米列強の支配からのアジアの解放」という言葉を戦争の理念として唱えていました。日本の国民はその言葉に心を動かされ、戦争を正義と肯定する大義名分としたわけです。

私は「知覧特攻平和会館」を二度訪ねました。20年くらい前に初めて訪ねました。教師である以上、知覧は知らなければならないという一つの義務感のような動機で訪ねました。知覧から沖縄戦の海に飛び立っていった特攻隊の若者たち。若者たちの遺影と遺書に釘付けになりました。遺影の中の目が何かを語っています。険しく逞しい目力でも、どこかに別の何かを訴えるものがある目でした。遺書では文字と文字の間に、行と行の間に隠されて込められた言葉が聞こえるようです。特攻隊航空兵1,000人を超えるその遺影と遺言の手紙の中でただただ悲惨さを感じ、言葉を失って帰りました。重い衝撃でした。そして二度目は8年前です。二度目の訪問には理由はありません。何かが未消化でどうしても訪ねたかったのです。国民の一人一人が正しい判断をする能力を失う怖さを深く感じてきました。町、地域、国という集団のレベルで、ものの判断ができなくなる弱さや、判断がつかなくなった状態の怖さ、集団心理で思考が停止する状況の悲惨さを感じて帰って来ました。

文庫本の「知覧からの手紙」(新潮社・水口文乃著)で紹介されている穴沢利夫さんの遺言は、今、色々なところでよく取り上げられています。穴沢利夫さんは福島県の出身でした。幼い頃から読書が好きでした。故郷に児童図書館を作ることが夢でした。中央大学に進学しました。大学卒業後は法曹界に進みたいという夢がありました。入学後、生活費を得るためにお茶ノ水の東京医科歯科大学の図書館でアルバイトをしながら勉強をしました。アルバイト先の図書館で、結婚を互いに希望することになる女性、孫田智恵子さんと出会います。教養のある二人は、じっくりと互いに思いやる気持を育んでいきました。

しかし、戦争の状態は厳しくなります。戦況が厳しくなると、戦争をすることに都合がいいように、社会の全てのことが歪められていきました。5月には治安維持法の話はしましたね。穴沢利夫さんは、「戦時特例法」という法律で大学を学年繰り上げで卒業することになります。そして、日本陸軍の熊谷陸軍飛行学校相模教育隊に航空訓練兵として入隊しました。知らぬ間に、逃れられない箍(たが)をはめるようにして士官となっていきます。

戦争は次第に苦しい状況となっていきます。穴沢利夫さんは訓練で日本国内の基地を転々としながらついに知覧へとやってきます。そして当時で言う「晴れの出撃の日」を知覧で迎えることになりました。穴沢利夫さんは、孫田智恵子さんとの数少ない面会中で智恵子さんから贈られた薄紫色のマフラーを首に、特攻兵士のマフラーと重ねて二重に巻いて飛び立っていきました。知覧を飛び立つ前に書いたのではないかと言われる遺書があります。穴沢さんが智恵子さんに宛てた最後の手紙を紹介します。難しい言葉は現代語にして紹介します。穴沢利夫さん、23歳。

「あなたの幸せを願う以外に何物もありません。
無駄に、過去のことや過去の義理にこだわってはいけません。
あなたは過去に生きるのではありませんから。
勇気をもって過去を忘れ、将来に新しく生きる場を見出すことです。
あなたは今後の、一時一時の現実の中に生きるのです。
穴沢は現実の世界にはもう存在しません。
 ………
いまさら何を言うのかと自分でも考えますが、ちょっぴり欲を言ってみたいです。
1、読みたい本、「万葉」「句集」… 
2、観たい画、ラファエルの「聖母子像」、狩野芳崖(かのうほうがい)の「悲母観音」 
3、智恵子。 会いたい、話したい、無性に。
今後は明るく朗らかに。
自分も負けずに朗らかに笑って征きます。」

生きたくても生きることが許されなかった「時代」がありました。生きたくても、それが出来ない、人としての思考が停止させられた「社会」がありました。そして、人の命を命と思わない、社会の狂気がありました。

いま、私たちは未来を期待できます。人は過去を変えることはできませんが、未来はつくれます。変えることもできます。それが近い未来であれば、具体的に可能なことが多いものです。未来は自分がつくる新しい時間です。新しい時を期待して待ち、人として生きるために「狭い門」の意味を考え、夏休みを過ごしてほしいと願います。 今日のメッセージはここまでです。