校長のつぶやき(10)~これからはダイバーシティだ!入試においても~


掲載日:2018.09.26

校長のつぶやき(10)
2018年9月26日

ある日、生徒たちとの歓談の中でのこと。私が「ダイバーシティ(diversity)」と言ったら、私の発音・アクセントが日本語だったからなのか、連想で「お台場(のダイバーシティ)にもそういう意味があるのだろうか?」とささやいた生徒がいた。お台場は「DiverCity Tokyo」で複合商業施設とビジネスビルの一帯。それまで、「お台場」に洒落た命名と流してきたのが、なるほど…多種、多様な…という点でのひっかけも?とも思った。

Diversity…、この言葉が日本の社会に浸透してきたのは1990年代後半だろうか。アメリカでは盛んに使われるようになっていた。私にとってこのdiversityという言葉があらためて鮮明な記憶として刻まれたのは2000年、以前勤めていた学校法人の別府にある大学での会議の席だった。アメリカ社会についてのくだりで、「今や人種の『坩堝(るつぼ)』という表現から『多様性』だ。人種、性別、宗教を越えて多様な人材がそれぞれの価値で混在し活性化する。自然界では、生物多様性があってバランスと平和が保たれる…」という趣旨の話(英語)を聞いた時だ。サモア出身の大学の先生の言葉だったと記憶する。ご自身の経験からなのか、当時のスリランカ出身の学長先生の説かれる論が深く浸透しているからなのか分からないが、その大学の環境の中では本当にvividな言葉だった。

日本は、高度経済成長期、教育現場も社会の成長に歩調を合わせて、人材育成も効率化の追求となった。特に中等教育の学校群では世界のどこの国よりも、公立の隅々まで、学習効果と成果を目指す効率の高さの追求で「・・化」が進んだと思う。それは社会の経済性や全体の発展にとって合理的な一つの技(or業)だったし、国と国民の共通する豊かさの追求とその中での競争原理での必然だった。学校も教育観の合理性として、教育の成果の評価を矮小化してきたと思う。しかし今日、そうした学校教育観が、これまでの技が、今の諸外国との間のボーダーレス化や就職環境でのフラット化が進む日本の社会で、圧倒的に支配的な価値軸として通用し続けるだろうか?国内には不登校から引きこもりの高齢化進行などの課題の深刻化があり、国際社会を見渡せば、自尊感情を高く持てない若者が圧倒的に多いという日本の特徴はどこから来るのか。

学びのあり方についての根本的パラダイム・シフトが、少しずつだが確かに起こっている。国内外の社会情勢の大きな変化からそれは余儀なく進むだろう。まさに、今回の新しい学習指導要領で示されている「主体的・対話的で深い学び」とは何を求めるのか、何故なのかを考えれば、確かに進んでいることが感じられる。しかし、今よく聞くアクティブ・ラーニングという言葉を単純にそのための授業手法と理解して、「主体的・対話的」とは生徒も多く発言する授業の方法のことだろうと、根本を考えずに表面的に理解することでは全く的を射ない。決して知識吸収を否定するものではない、しかし、そこに留まるこれまでの学力観への警鐘が打たれている。中央教育審議会初等中等教育分科会・第100回(2015年9月)では、「解き方があらかじめ定まった問題を効率的に解ける力を育むだけでは不十分である」、「予測できない未来に対応するためには、子どもたちが、社会の変化に受け身で対処するのではなく、主体的に向き合って…」とある。日本の教育への危機感が確かにある。

翻って本校の現状での中学入試にも、パラダイム・シフトを持ち込むべきだと考えた。4科・2科での学力測定だけで、児童の潜在的な資質や能力、才能や将来的可能性を測れるだろうか。大きく変化する社会に生きていく子どもたちには、入試では「ペーパーテストだけに限らない」という評価軸も必要なはずだ。児童の学習歴や活動歴を多様に積極的に評価すべきなのだ。あるいは、たくさん読書をしてきていて12歳という年齢で多くの疑似体験的人生をVR(バーチャル・リアリティ)的に持ち、それらの知識や経験と、その場で与えられる情報とを再構成しながら解決策や新しい価値を創造する力を持つ、そういう児童も評価したい。

入職して4年半。これまでの経験や他校との比較で眺めると、生徒たちが伸び伸びと主体的に育っている六浦の校風が見える。型破りに活躍する卒業生の様子を聞くにつれ、六浦のDiversity をあらためて思う。同時に時代を見据えて、中学入試と入学後の教育でそれを追求したいと考えている。