収穫感謝礼拝をささげました


掲載日:2020.12.02

収穫感謝礼拝をささげました

1620年、信仰の自由を求めてメイフラワー号に乗り、アメリカにわたってきた清教徒たちは、最初の冬に飢えと寒さで多くの死者を出しました。しかし、次の年には先住民の協力を得て多くの収穫を得ることができたのです。そこでその収穫物を前に神に感謝の礼拝をささげました。これを記念して、アメリカの教会で毎年11月にお祝いするようになったのが収穫感謝日です。

本校では11月18日と19日、中学・高校それぞれで収穫感謝礼拝をささげました。
ここでは、中学生の礼拝の様子をお伝えします。お話いただいたのは、日本福音ルーテル横浜教会の市原悠史牧師です。

<説教全文>

おはようございます。只今ご紹介にあずかりました、市原悠史と申します。関東学院中学でお話をさせていただいたのは2年前になりますので、ほとんどの方が初めましてですね。直接皆さんのお顔を見ながらお話しできないのが残念ではありますけれども、できる限り、このレンズの向こうの皆さんの姿を想像しながらお話させていただきます。

今日は収穫感謝の礼拝ということです。収穫感謝という行事がどのようにして始まったのか、おそらく皆さんは今日を迎えるにあたり聞いているかと思います。収穫の一部を神様に献げるということは、聖書の中にも書かれています。それは、自分たちが食べているもの、収穫というものは自分たちの力で得られたものではないということを知るために、とても大切な行為でした。いわゆる「収穫感謝祭」を始めたのはキリスト教徒ですから、感謝の対象は聖書にも書かれている神様になるのですけれども、その年の収穫を祈願したり感謝したりという行為は日本の神社などでも見られることですね。感謝するということは、当たり前ではないことを知ることになります。思い上がりを防ぐ意味でもそれはとても大切なことだと感じます。

例年ですと色々な野菜や果物などを持ち寄るところを、今年は献金になったと伺いました。献金を届ける先についても教えていただきました。とても興味深かったです。皆さんの中にはもしかしたら先生に言われたから持ってきただけと感じておられる方もおられるかもしれませんが、動機が何であれ、皆さんがされたことには大きな意味があります。それ自体が、大切なメッセージになっているのです。今日はそんなことを一緒に分かち合えたらと思っています。

さて、先月の始めにノーベル賞の受賞者が発表されました。私が触れているメディアではあまり話題になっていた印象がないのですけれども、皆さんは今年のノーベル平和賞をどなたが受賞されたかご存知でしょうか。実は私も今月に入ってから人に教えていただいたのですけれども、今年の受賞者は、個人ではなく団体でした。それは、ワールドフードプログラム(WFP)と呼ばれる国連の機関です。国連世界食糧計画というのが日本語での呼び名です。さも昔から知っているかのような顔でお話していますけれども、私も今回の受賞でようやくその働きを知った一人です。恥ずかしながら。

いわゆる飢餓問題というのは私たちの身近な所でも起こっています。特にここ数年では「こども食堂」という活動が多くのところで行われるようになりました。路上生活をされている方々への食事の支援なども、何十年も絶えることなく続けられています。そちらでは私もなるべく継続して支援をしているのですが、問題そのものを解決するためにはどうすればいいのか、難しい状況が常に身近なところにあります。

今回のニュースでハッとさせられたのは、食糧支援という働きが「平和賞」の対象になるということでした。ひとつはこのWFPという機関が、ここ数年で増えてしまった紛争地域において、生活の困難の中にある人を支援してきたということがその理由かと思います。ですが、これを聞いて思い出した言葉がありました。ある日本人の言葉です。その方はインタビューの中で、次のように答えていました。
「困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場や国に関係なく、“正しいこと”これは絶対的な“正義”なんです。」
この方はもう亡くなられているのですけれども、ご自身が第二次世界大戦のときに兵隊として参加させられた経験が、この言葉の背景にあるとのことでした。戦場で一晩中眠れないこと、泥の中を転げまわること、色々なひどいことがあっても、横になっていれば大抵のものは回復するのだそうです。でも、お腹がすくということだけは我慢ができなかった、と。飢えるということが一番つらいということを、その方はものすごい仕方で体験したというのです。

その人は考えました。戦争という状況では、「正義」という立場がころころ変わってしまう。ではどの立場でも変わらない、本当の正義とは何なのか。そして言うのです、それはひもじい人を助けることだ、と。飢えている人がいれば、その人に一切れのパンを差し出す、それはどんな立場であったとしても絶対に正しいのだ、と。その人の考えでは、もし正義の味方がいるのだとすれば、それは悪者を力で排除・駆逐するような存在ではなく、お腹が減っている人を助ける存在のはずだ、というのです。お気づきの方もいるかもしれませんけれども、この人の名前はやなせたかしさんといいます。アンパンマンの作者なんですね。

ほとんどがやなせたかしさんの話になってしまいましたけれども、今回ノーベル平和賞を受賞した国連世界食糧計画という機関の働きが「平和賞」の対象となったということで、やなせさんの言葉を思い出したとお話しました。皆さんは、今日は収穫を「感謝する」という意味で献げものをされたかと思いますけれども、その「献げる」という行為は誰かに対して「一緒に生きよう」「今この時を一緒に歩んでいこう」というメッセージになっているのですね。感謝すること、それを差し出すということは、平和をつくり出す行為なのです。動機は人によって様々でしょう。最初に申し上げた通り、先生に言われたから持ってきただけ、という方もおられるかもしれません。でも動機が何であれ、皆さんが今日されたことには、そのような大切な意味があるのです。

今私たちは、大変な一年を過ごしています。最近また雲行きが怪しくなってきました。そしてこの状況がいつまで続くのかわかりません。実際に苦しんでいる人の声を聞きますし、皆さんの中にも苦しみの中にいる人は勿論いるでしょう。そんな中で礼拝も行われても、神様なんてどこにいるんだと思う人もいるかもしれません。今日ご一緒に聞きました箇所によれば、飢えている人、のどが渇いている人、宿のない人、裸の人、病気の人、自由が奪われている人、その一人一人が神様ご自身であると私たちに語ります。私たちが、「神様がいるなら何でこんなことが起こるんだ」と憤るような出来事、その中に神様ご自身もおられるというのです。

今も身近な所で、助けを必要としている人がいる。弱さの中に置かれた人の中に神様がいる。私たちには分かち合えるものがあるのですね。私たちには、今この状況だからこそ、与えられている命の意味があるのです。一緒に生きよう。一緒に今この時を生きていこう。そのようなメッセージを、具体的な行為として生きることが、私たちにはできるのです。今日皆さんはそれをしたのです。

今日、私たちが与えられた命も、皆さんが献げた献金も、誰かと一緒に生きていく、そのように用いられていきますように。また始まっていく新しい日々において、感謝と共に平和をつくり出す、そんな皆さんの命でありますように。