2018年度入学式学校長式辞(全文)


掲載日:2018.04.06

新入生の皆さん、関東学院六浦中学校・高等学校への入学、おめでとうございます。
そして、保護者の皆様、今日の日がご家族にとって記念すべき一日になることを、教職員一同、強く確信し、心よりお慶びを申し上げます。

関東学院六浦は2013年度に60周年を迎え、2014年度より新しい教育観を掲げてきています。予想することも難しい未来の社会を強く意識した教育のあり方への転換を、静かに熱く、着実に進めてきています。
グローバル化という言葉が叫ばれるようになって久しくなりました。私たちは次第に、グローバル化とは、国外の世界だけを見て語る言葉ではなく、国内の環境の変化を指し示す言葉である、と実感するようになってきました。大きな原因は、言うまでもなく少子高齢化です。日本は世界の中でも他に例を見ないくらいに人口減少が進んでいきます。人口の回復の術は、もはやありません。2045年には全国の自治体の約半分が消滅の危機に立つと言われているほどの状況です。必然的に、全国の多くの地域に、多文化、多民族よる共生社会が生まれてくるでしょう。国内のグローバル化とはどういうことなのか、新入生の皆さんは自分の生きる社会のこととして真剣に考えなければなりません。
そうした意味では日本の未来にとっても、皆さんはとても大切な存在です。そして、皆さん自身にとっては勿論のこと、皆さんの歩む道がこれまで以上に一人一人の個人にとって、自分自身にとって、大きな価値をもつものになるでしょう。ですから、夢を大きく持ち、夢に向かってどんな力をつけるかを恐れずに考え、おおらかに進んでいってほしいと思います。六浦には、夢を持ち大志を抱いておおらかに社会で活躍している卒業生がたくさんいます。そのおおらかさは、六浦での時間と空間で育てられたと感じています。
夢を描くにも、もう一つの問題に目を向けなければなりません。それは、人工知能とロボットの急速な発展です。もう6年以上も前から言われてきていることですが、今ある職業や仕事の多くが消滅し、今はない新しい仕事が誕生するだろうということです。しかし、そういうことは過去にもありました。私の世代が中高生の頃までは、電車の駅の改札口で紙の切符にはさみを入れる仕事がありました。職業の変遷はあります。しかし、違うのは、その変化がますます早く、激しくなっていることです。
さて、皆さんの世代に求められる力とはどんな力なのか。その答えは、これまでの大人たちがほとんど経験してこなかった変化の中から、新たに見つけ出さなければなりません。そのためには、勇気が必要です。そしてその勇気とは、単なる言葉だけでの勇気ではありません。できるだけ若いうちに実際に外の社会に飛び込んで見てくる勇気、そして主体的に考える勇気、今まであるものに頼らず、自分を自分で作ろうとする勇気です。
しかし、一方で関東学院六浦は、皆さんが生きていく上で、変えてはいけないもの、と、変えるべきものをしっかりと見極める力を育てたいと思っています。さあ、新しい生活の始まりです。元気に出発しましょう。

関東学院の初代学院長の坂田祐先生は、「人になれ 奉仕せよ」を校訓として掲げました。生きてゆく上で決して忘れてはならない不変の価値観として、「その土台はイエス・キリスト」であると説きました。「人になれ」とは、イエス・キリストの生き方とその意味を考えることから理解するものです。隣人を自分のように愛する心を知ることです。その上での「奉仕せよ」です。「奉仕せよ」とは、自分以外の人に自分がそうしてもらいたいと思うことをすること、あるいは、自分ではなく相手を利させることを目指すことです。そして、その二つがあって、平和を生み出す力が生まれます。
六浦は、想像することすら難しい近未来の社会を見据え、校訓に掲げた精神を、変わらない揺るがないものとして捉えながら、その上で、社会の多様性を意識し、感受性が柔軟なうちに、変るべきものは変わるべきものとして考えています。
キリスト教の精神を明確に掲げる教育環境の中で、人が弱い者であることを確かに知り、そして、人の弱さを知ることで逆にしなやかさと強さを学ぶ。そして恵まれた教育機会を活かし、より若いうちに、広い視野で学ぶ。ここに、六浦で学ぶことの大きな意義があります。

さて、皆さんは、野口英世という人を知っていますね?
野口英世は、私たちがその肖像画に日常的に接することが最も多い人の一人かもしれません。そうです。今の千円札に描かれている人物です。今から142年前の1876年生まれで、90年前の1928年、アフリカで、51才で黄熱病によって亡くなった細菌学者です。
第一次世界大戦のころ、野口英世は、アメリカのロックフェラー財団から巨額の研究費を与えられ細菌感染による研究に没頭していました。1919年当時の南米のエクアドル、メキシコ、ペルー、ブラジルで流行した病気では病原体を発見するという成果をあげました。しかし、黄熱病の病原体として特定したという実績は後に否定されますが、その時同時に発見した、ワイル病の病原体の特定で世界一流の細菌学者と呼ばれました。ノーベル賞こそ受賞しませんでしたが、生涯を通し、多くの賞や称号を受けています。1921年には、アメリカの有名な大学であるブラウン大学とイエール大学の二つの大学から「ドクター・オブ・サイエンス(名誉理学博士)」の称号を与えられました。これは、ラジウム発見のキュリー夫人と並んで同時の受賞でした。
当時、普通の光学顕微鏡では見えない病原体を特定するための技術には限界がありました。病原菌を発見するための濾過器を通過してしまう「ウィルス」の存在は以前から予想されていましたが、野口英世の時代では発見は無理なことでした。業績の中で、今の微生物学で評価できるものは一部であると言われています。しかし、いくつかの病気での病状の研究、病原体の特定、その研究方法、培養技術や治療のため血清の研究などで医学の発展に貢献したと高く評価されています。

1924年、アフリカ・セネガルで黄熱病が発症した時、アメリカのロックフェラー国際衛生局が黄熱病委員会を組織して、ナイジェリアに本部を置きました。ロックフェラー研究所の主任研究員であった野口英世は、自分に関係する研究者が現地で倒れてゆく知らせを受ける中で、自らアフリカ行きを決意しました。
北篤緒の『正伝 野口英世』(2003年毎日新聞社刊P.274)の中で、博士の決意のあたりが次のように紹介されています。「アフリカから数週間もかかって、患者の血(液)を送ってくるようじゃ、研究材料として新鮮さがないのですよ。」
野口英世はもう50歳で、心臓が肥大し糖尿病になっていました。周囲は行かないように、留まるようにとの説得をしました。しかし、その声を振り切ってアフリカに行きます。その時こう語りました。
「御忠告は有り難いが、私は何も恐れない。私はこの世に、何かをなすために生まれてきたのです。」
また、野口英世を伝える別の記録には、「自分のやりたいことを一所懸命にやり、それで人を助けることができれば幸せだ。」と語ったとあります。

野口英世は、奮闘の甲斐もなくアフリカで黄熱病に倒れ、亡くなります。遺体は、ロックフェラー氏の強い要望でアメリカに運ばれました。伝染病で亡くなった人の遺体が遠くアフリカから運ばれてアメリカ国内で葬られることは異例でしたが、野口英世はアメリカの人々にとっても大きな誇りだったのです。

野口英世は貧しい農家の家に生まれました。1歳の頃、左手を囲炉裏で火傷をします。手の指が全部握ったまま固まってしまうという怪我を負います。15歳の時に、周囲の支援で手術を受けました。手術に感動し、自分も医師になることを決意して一生懸命に努力しました。
家はとても貧しく、上の学校へ行くこともできる状態ではありませんでした。しかし、献身的な母と、ある人々に支えられて東京へ出て学べることになります。ほぼ独学で医師の資格を取り、その後研究者への道を歩みました。ある知人から並々ならぬ支援を受けました。しかし、その支援や思いを裏切るかのような、普通に考えれば決して許されないだろうと思われるような、奔放な生活を幾度か繰り返しました。しかし、何度も知人からはそれをゆるされ、さらに支援を受けて20代でアメリカに渡り、世界で活躍する研究者への道を歩みました。

野口英世は東京で学ぶ前、郷里の会津若松市で、住み込みで働きながら医学の基礎を3年間ほど学びます。その間、18歳の4月7日にキリスト者になりました。当時の「日本基督教団若松栄町教会」でした。礼拝での賛美やクリスマスでのお手伝い、日曜学校のお手伝いの奉仕を熱心にしていたと語られています。
青年期に差し掛かる多感な時期に、キリスト教と出会うことには意味があります。キリスト者になろうがなるまいが、その後の人生で何かを考える時に何らかの影響があるものです。研究のためアメリカに渡った時、多くのアメリカの人々から支援をうけています。明治時代の日本のキリスト者青年として有名な札幌農学校出身の内村鑑三や、同じく新渡戸稲造、新渡戸稲造は後に国際連盟事務次長を務めた人としても有名です。あるいはまた、津田塾大学を創始した津田梅子などをお世話したというキリスト者のモリス夫妻にもお世話になったということです。モリス夫妻との出会いも大きな影響となったかもしれません。

野口英世の最期となった地、アフリカ、ナイジェリア。ここに赴く決意。これを聞くだけで、野口英世が語った「御忠告は有り難いが、私は何も恐れない。私はこの世に、何かをなすために生まれてきた」と言う言葉や、「自分のやりたいことを一所懸命にやり、それで人を助けることができれば幸せだ」という言葉は、単なる目標や信条ではなく、生きることの意味を、若いころのキリストとの出会いから、心の底で噛みしめてきた証なのだろうとも想像します。

あらためて、入学を祝します。
新入生の皆さん、これから新しい生活が始まります。将来を展望するとき、大きな夢をもって、その夢に向かう技を身につけることが大切です。しかし、同時に、人は決して強くないということを見つめて知り、互いに尊重し、そして奉仕する心を育てることが大切です。
六浦には、それを考え実践する環境があります。時間に流されることなく、自分で決める、自分の力で立つ、その力を一つ一つ身につけていく。今日から始めましょう。
そして、これまで守ってくれた家族や周囲の人たちの温かい手をしっかり覚えつつも、その手から、いずれしっかりと離れられるよう、日々の成長を願いましょう。

以上をもちまして、学校長の式辞といたします。

2018年4月5日
関東学院六浦中学校・高等学校
学校長 黒畑勝男

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