中学校朝の礼拝~神学校を覚えて~

掲載日:2020.10.14

10月13日(火)、中学校の朝の礼拝では、「神学校を覚えて」と題して礼拝をささげました。

私たち関東学院の第一の源流も「(横浜バプテスト)神学校」です。この「神学校」とは、牧師になるための勉強をする学校のことです。今回の礼拝では、難民申請をしたエルセンサンさんが「神学校」に入学した理由をメッセージで語られました。民族衣装がとても素敵でした。

以下、礼拝でのメッセージです。
***

聖書

助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。(出エジプト記1章17節)
彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(ルカによる福音書10章27~28節)

メッセージ

『神様の愛で生きる』 エル・センサン神学生(日本バプテスト神学校)

みなさん、おはようございます。私の名前はエルセンサンと言います。日本バプテスト神学校の一年生です。

わたしは、ミャンマーという国から来ました。皆さんは、ミャンマーという国を知っていますか? 1989年まではビルマという名前でした。ミャンマーは東南アジアの国で、インド、バングラデシュ、中国、ラオス、タイと、国境で接しています。インターネットの情報では、ミャンマーの人口は5100万人くらいで、135の民族がいます。その中で、わたしはカチン族という、人口100万人ほどの少数民族です。私はミャンマー北部のシャン州にあるクッカイという小さな街で生まれました。ミャンマーでは、少数民族に対する攻撃の内戦がずっと続いています。それもあって、わたしは日本で難民申請をして定住しています。

わたしは、日本に来て1年過ぎた頃に、自動車との接触事故に遭いました。まだ慣れない国で、体も生活も痛みと不安でいっぱいでした。そんな時に、ある日本人の牧師に親切に助けられました。わたしはみなさんと同じ年の頃に主イエス・キリストを信じてクリスチャンになってはいましたが、この牧師との出会いを通して、本当に神さまの愛にふれたと思いました。そして私も他の人に神の愛を伝えたいと思ったのです。そこで、わたしは57歳ですが、日本バプテスト神学校に入学して、今、毎日聖書の勉強をしています。

今日は、みなさんに、『神の愛で生きる』というお話しをしたいと思います。
旧約聖書の出エジプト記1章に、「シフラ」と「プア」という名前の助産婦が出てきます。イスラエル人がエジプトで奴隷として生きていた時代の話しです。エジプト王ファラオは、「イスラエル人たちは、一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない」と考えて、イスラエルの民を酷くいじめ、苦しめていました。けれども、どれほどいじめても数が減らないので、とうとう男児殺害を命じたのです。

助産婦の「シフラ」と「プア」は「いずれも神を畏れていた」と書かれています。だから、ファラオが命じたとおりにはせず、男の子も生かしておきました。わたしは、神様は二人の助産婦に、愛と力を与えてくださったのだと思います。そして、二人の働きで、子どもも、生んだ母親の命も生かされたのではないかと想像しました。現代でも、貧困や内戦の状況で、出産する母親が現場でいのちを落とすことも少なくありません。疲れ果てた出産のあと、目の前で自分の子どもの死を見た母親が、そのショックで生きることができなくなるのです。

わたしは、この話を読んで、さらに、新約聖書にある、イエスさまが話された「善いサマリア人のたとえ」という話も思い出しました。

主イエスの時代は、圧倒的に強大なローマ帝国の支配下で、さまざまな民族が過酷な日々を送り続けていました。このたとえでは、強盗に襲われ、半殺しにされていた「ある人」を助けたサマリア人は、「シフラ」と「プア」のように、いのちを救う人となったのです。

そのように、いのちを援けるはたらきをすることが、「自分を愛するように、隣り人を愛する」ということだとわたしは思います。そして、そのように生きようとする人と共に神さまが働いてくださっていると信じています。

私たちも、さまざまな過酷な状況の中で生きています。身近な所でも、世界でも、事故、事件、人災、天災などの暗いニュースが毎日たくさんあります。

そんな中で、聖書を読んで、公正、公平、平等、人権を主張することが難しかった時代にも「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、神である主を愛し」、また、「隣人を自分のように愛し」て生きた、助産婦の「シフラ」と「プア」や、善いサマリア人の話を読むと、わたしはとても励まされます。

 そして、いまの私たちも、そのような「神の愛で生きる」ことができると、信じています。